エロ率分析 (α)

〜分析結果サンプル〜





「ただいまっ。」


 るんるんっ。ボクは上機嫌だ。

 だって、まさか晴彦さんと帰りが重なるなんて思ってなかった。

 えへへ。運が良いなあ。


「お母さん、ご飯は何? ボク、お腹空いちゃ――」


 ガチャ。


「――った?」

「今帰った。」


 お父さん?

 怖い顔。


 振り向いたボクは、リビングに繋がるドアを開けたまま固まって、いつもよりずっと厳しい顔をしているお父さんを見つけた。


「結菜、話がある。」


 ああ、そうか。

 さっきまでの、全部、見られちゃってたのか。


 ボクは、あまりにビックリして、却って酷く冷静に状況を飲み込んだ。

 何を咎められるのか、わかってしまって、そしてボクは導かれるように首許を押さえるように手で隠した。そこには、キスマークがあった。ブレザーを着ているから、夏服よりガードが固くなっていたけれど、絶対に見られてはいけないという焦りが、まだ夏服を着ているんじゃないかって混乱した勘違いを起こしたことに気が付いた。

 気が付いたから、ボクはキスマークを隠した手を軽く握って、そして髪の毛を弄った。まるで、振り向いたときに視界を遮った髪の毛を除けたかったとばかりに。


「が、先に晩御飯を食べようか。」


 これ、絶対無言の食卓になるよね。



   *** ***



 お父さんが、お母さんから受け取ったグラスの水を飲んで、そして一息吐く。


「……さて、結菜。彼が、誰なのか。話してくれるね?」


 声音は優しい。表情に感情は見えないけど、視線だけで雄弁に怒りを訴えていた。


「彼氏です。望月 晴彦さんっていうの。」

「彼氏。」


 ピクリと、眉毛が動いた。


「そう。」

「何歳なんだ?」

「36歳。」


 聞いて、また眉毛がピクリと動いた。引き攣ったと言ってもいい。

 何かを堪えるように少し歯を食いしばったのか、頬に力が入っている。その口を、開いた。


「……母さんは、知っていたのか?」

「ええ、知っていましたよ。」


 当然でしょう? とでも言うようなお母さんは、まるで第三者かのように、ダイニングの椅子に斜め向きに座って、お父さんとボクからちょっと距離をとっている。

 真正面に腰掛けていない、それだけでお母さんがボクの敵に回らないことを、ううん、お父さんの味方に回らないんだから、ボクの味方も同然の態度を示してくれている。


「いつからだ。」

「先週くらい、だったかしら? ねえ、結菜。」

「うん。」

「そうか。」


 お父さんは眉間を押さえて、少し考え込むようなポーズをとった。

 それも10秒ほどだから、考えるというよりは落ち着くように自分に言い聞かせていたのかもしれない。

 溜め息を一つ、そしてお父さんはボクに尋ねる。



「……正直、驚いた。」



 ボクがお父さんのことが大好きなのは、こういうところ。普通の人は感情的になっているときは特に、自分の結論だけを話す傾向にある。

 お父さんは怒っている。だから、ビックリした、というのは結論じゃなくて過程だ。怒っているのに、怒りに身を任せていないし、物事をわかりやすく伝えてくれるから、お父さんの気持ちもよくわかるし、誤解が少ない、お父さんを疎ましく思ったことはない。


「駅を出て、前に結菜が歩いているのが見えた。」

「うん。」


 つまり最初から全部見られてたってことですね。

 一番恥ずかしいやつですね。

 はい。


「声をかけようとしたら、隣にいた背広姿の大男の鞄を受け取って、そしてその腕に抱き着いたのが見えた。」


 お父さんはきっと、今、自分の中でも出来事の整理をしているんだと思う。


「驚いて、足が止まった。……そして、そのまま何か楽しそうに二人で歩いているのが見えた。その姿をどう解釈すればいいのか、とにかく、男がどこまで一緒なのだろうかと思って、後ろから付ける形になってしまったが、後を追った。」

「うん。」

「最終的に、家の前まで男が一緒なのを見て、ああ、見送りをしていたのだとわかった。そのときはまだ、衝撃から脱していなかったから、彼が何なのか、想像も追いついていなかった。」

「うん。」


「直後、結菜から、……彼に、キスをするところを見てしまった。」


 うん。

 親にキスを見られるとか、うん。


「頭が混乱した。結菜は高校生だ。そして彼は、サラリーマンに見える。一体全体、これはどう解釈したらいい?」

「お父さん。」

「ああ。」

「晴彦さんは、ボクの彼氏、、、恋人です。」

「……ああ。」


 それは一番聞きたくなかった言葉だろう。

 さっき聞いた言葉が嘘ならばいいと、もう一度聞いて、確かめてしまった。

 お父さんは一瞬で色んなことを考えたと思う。晴彦さんの正体について、彼氏とか、もしくはボクの援助交際の相手とか。援助交際の相手なら、ボクを激しく叱るつもりだったのかな。

 どっちにしても、頭の中が凄くこんがらがっていると思う。


「彼氏、恋人。36歳。」


 お父さんが、ブツブツと呟く。


「私と、一回りちょっとしか違わないじゃないか。」


 お父さんもお母さんも、だいたい50歳を超えたくらいだ。

 ボクは、二人が30歳半ばの時に生まれた子供で、凄く大事に育てられてきた自覚がある。

 そんな娘に、突然36歳の彼氏がいるという事実を突き付けられるお父さんの心境は、晴彦を以ってしても推し量り難い。

 とてつもない葛藤が、あるのだとわかる。

 当たり散らせるなら、したいんじゃないかな。


 それで解決するなら。


 お父さんは若くない。だから、喚いて解決することじゃないってわかって、そしてそれゆえに懊悩している。

 どう、自分の中で消化したら良いか、わからないからだ。


「……そうだ。結菜は、彼と、どうなりたいんだ?」


 その問いに淀み無く答える覚悟は、ずっと前に済ませてきた。


「晴彦さんと、結婚したい。今すぐ幸せにしたいんだ。」


 はっ――と息を飲む音は、お母さんから聞こえた。結婚、そこまでは考えてなかったんじゃないかな。


「そ、うか。」


 お父さんもまた、黙り込んだ。


「……騙されては、いないのか?」


 お父さんは、ボクが口にした結婚の言葉を問い質さなかった。

 それは、嬉しい。でもね。

 騙されてはいないのか、かあ。お父さん、その言葉は口から零しやすいけれど、意味するところはわかって言ってる?

 それって、ボクが処女じゃなくなって、そして満足するまで犯されたらポイ捨てされるかもって言ってるんだよ?


「ボクが、信じられない?」


 お父さんは、息を詰まらせて、そして歯ぎしりをする。

 ボクが信じられないなんて、そんなことはない。だから、さっきだって晴彦さんじゃなくってボクから先に事情を聞きたくて、晴彦さんを追わなかった。

 ボクを信じてないと出来ないことだと思う。


「そんなに信じられないなら、、、明後日。明後日のお昼過ぎに晴彦さんを連れて来るね。」


 だからこそ、ボクは畳み掛ける。ボクへの信頼と信用と、お父さんの不安と心配とを天秤にかけないで良いくらい、ボクの側を傾ける。


 晴彦さんにも急な話だと思う。でも、晴彦さんもボクを大切にすると言ってくれた。

 ボクは、それを信じる。

 晴彦さんの攻略方法しかわからない晴彦にも未知の領域に、両足で踏み込んだ。

 もう、後戻りなんて考えなくて良くなった。


「……結菜。」

「うん?」

「成長、していたんだなあ……。」


 お父さんは、ポツリと言った。

 その一言には、多くの言葉が詰まっているように感じられた。

 お父さんは、何か、肩の荷が一つ無くなったかのような、少なくとも心配が杞憂だった時の表情をしている。

 ボクは、お父さんを一度も怒らせることなく一応、説得することに成功した。


「結菜。……なんで、なんだ?」


 男の人って、大事なときに言葉を端折ったりするじゃん? お父さんも感情が前に出すぎて自分の中での結論というか、そういう感じの聞き方をしちゃうくらい、いっぱいいっぱいなんだ。


「今すぐ幸せにしたいから。さっき言った通りだよ。」


 晴彦さんには、ボクが大人になるまで待つような、悠長に幸せになっていられるほど時間が無い。子供が大人になったとき、自分がおじいちゃんみたいなんて、ヤだ。

 ボクの人生の、やり直しが出来るって言われている間に晴彦さんには幸せになってもらわないと、時間切れになっちゃう。


 だってボクは、人生のやり直しが出来るということそのものを担保に、今、晴彦さんに人生を使うしか方法が無い。


 ボクは、そういう決意も込めてお父さんを、


「どう、、、したの?」


 お母さんの目から、涙が零れた。

 お父さんも、目頭を押さえてる。


「結菜も、そうなのね。」


 え、な、なに!?


「結菜。」

「なに?」

「晴彦、くんって言ったか?」

「はい。」

「駆け落ちしたいほど好きなのか?」


「――うんっ。」


「そうか。……わかった。晴彦くんを、連れて来なさい。」


 その一言は、まるでボクを追い出すような感じだった。

 きっと、何かお父さんとお母さんで話したいことがあるんだと思う。今、お父さんもお母さんも急に変になったから。ボクにはわからない何かがあるんだろうな。


「わかった。……夜も晩いし、お風呂に入ってくるね。」

「ああ。」



   *** ***



「あ。」


 パジャマとか下着とか、部屋から取ってきてない。

 ボクは脱衣所で気付く。割りと慌てていたみたいだった。

 バスタオル姿で彷徨くのは、、、ちょっと。

 仕方ない。取ってくるか。


 ボクは脱衣所からリビングのドアの前を通っ、


「さな。」


 ん?

 びっくりして脱衣所に戻っちゃった。


「なに? 生ちゃん。」


 んん? お父さんと、お母さんの声?

 でも、聞いたこと無いような感じの雰囲気。

 その雰囲気を壊しちゃいけないと、ボクはこっそり耳を欹てる。


「教えてくれてても、良かったのに。」

「あら? 教えていたら、もっと早く結菜に詰め寄ったんじゃなくて?」

「そう、、、だろうなあ。」


 初めて聞いた。お父さんとお母さんがこんなふうに話しているのを。

 ボクは、何となく脱衣所の壁に凭れて耳を澄ます。秘密を覗いているようで、ドキドキする。


「そうですよ。生ちゃん、心配性だもの。」

「そうか。」

「ええ。」


 静かに笑ってる。


「何か、呑める酒は無いかい?」

「ありますよ。持ってきますね。」


 椅子を引く音がして、キッチンでカチャカチャと音が鳴っている。

 お母さんが、お父さんより一つ年上なのは知っている。二人が幼馴染みだというのも、聞いたことがある。

 でも、二人がまるで恋人同士みたいに話すなんて、想像も着かなかった。


 カラン。


「ふう。旨いなあ。」

「そんなに急に呷って。大丈夫なの?」

「もう、若くはないが、大丈夫さ。」

「そう。」


 穏やかな空気。


「……あれから、30年以上も経つのか。」

「そうねぇ。」

「長かったかい?」

「ふふ、冗談が下手なまま。心にも無いことを言うんだから。」

「そうだ。その通りだよ、さな。」

「生ちゃんといると、いつも時間は一瞬だった。気が付いたら、こんなおばさんになっていたわ。」

「さな。」

「なあに?」


「君は毎年、綺麗になっていっているよ。」


「うふふ、お世辞が上手くなったのね。普段から言い慣れている感じ。誰に言っているのかしら。」

「おい、意地悪なことを言わないでくれよ。私は、冗談が下手なのだろう?」

「お世辞は上手くなったのかもしれないわ。」

「……私は、お世辞も不得意だよ。知っているだろう?」


 カラン。


 ぅわーっ! わーっ! わーっ!

 なにこれ!? お父さんと、お母さん……?

 ダメだ、聞いちゃダメなやつだ。

 でも聞きたい! めっちゃ聞いていたい!


「もう少し、飲みますか?」

「当然飲むよ。君が注いでくれるお酒だ。」

「私も少し飲もうかしら。」

「おい、それは。」

「冗談よ。」

「さなが、酔ったフリで色んなことをしてきたのはよく覚えているよ。」

「そんなことは忘れてしまって。」

「出来ないよ。さなのことだから。」


「……もう、上手なんだから。」


「『今すぐ幸せにしたいから。』か。」

「懐かしいわね。」

「ああ。さなが大学を急に辞めて、私と駆け落ちをする前に、お義父さんとお義母さんに言ったことと、同じことを言ったな。……さなが教えた訳じゃないんだろう?」

「当たり前じゃない。あれは、私と生ちゃんの思い出だもの。生ちゃんのお義父さんが亡くなって、私は生ちゃんの反対も押し切って、それで二人で駆け落ちしたんじゃない。」

「……あのとき、さなが本当に頑固だってわからされたよ。いくら私の家の家計が厳しくなったとしても、奨学金とか、やりようはあった。なのに、さなはスパッと大学を辞めて、私と結婚して、アルバイトを掛け持ちしたりして、私を助けてしまった。私が卒業して、すぐ挙げた結婚式はいつでも思い出せるよ。」

「生ちゃん、何度も言ったじゃない? 私の夢はね、生ちゃんの、可愛いお嫁さんだったのよ? それがちょっと早くなるくらいなら、むしろ大歓迎だったのよ。生ちゃんだけが苦労して、疎遠になっちゃったりするくらいならいっそ、私も混ぜて欲しかった。」

「ありがとう。さなには感謝してる。……それに、だった、じゃない。」

「??」

「今でも、さなは可愛いよ。それに、綺麗になった。」


「……不意打ちなんてずるいわ。」


「本心だ。」

「嘘ばっかり。」

「……私だって成長もする。口下手で、くそ真面目と言われた私だったが、さなを喜ばせることだけは得意だっただろう?」

「……もう。」


 お父さんもお母さんも、すごく若い。

 たぶん、二人っきりだから、あの頃に戻っているんじゃないかな。


「結菜もそっくりで、とても頑固だ。」

「あらあら。」

「……そうか。さっき、ちょっとあの時の二人の気持ちが、わかったような気がしたのか。」

「そうなの?」

「さなは、そうじゃないのか?」

「そうかもしれない。……知ってるかしら。あの時、お母さんは私たちの味方をしてくれていたのよ?」

「そうだった、のか。あの時は一生許されないものだと思っていたが、道理で、私が昇進して主任になったとき、許してくれたのか。それでも30歳手前くらいだったか?」

「そうですよ。……ねえ、さっきはどうして怒りださないでいられたの?」

「なんだ、そんなこと。」

「聞かせてよ。」

「私たちも、けっこう苦労したじゃないか。」

「そうね。」

「その経験が最初に私を抑えてくれた。そして、少し混乱しているうちに、結菜に言い負かされた。あれは、見事だっただろう?」

「そうねえ、なんであんなに賢い子が生まれちゃったのかしら。」

「少なくとも、あの決断力と判断力はさな譲りだよ。」

「お世辞です。」

「お世辞じゃないさ。」


 そんな言い合いを楽しんでいる。

 ボクは、お父さんとお母さんの苦労は知らない。でも、幸せの典型みたいな白い小さな建て売り住宅に、ガーデニングをした庭。子供は30過ぎて産んだボク一人だけ。

 四角四面に普通を装った幸せの形。

 客観的な情報だけでも二人が凄い苦労をしてきたのがわかる。


 だからこそ、ボクは晴彦さんと恥ずかしくない恋をして、そして結ばれたい。駆け落ちなんてして、お父さんとお母さんを悲しませたくないから、絶対説得したい。


「……同期の奴らとたまに飲みに行けば、娘や息子が結婚する話をし始めるようになった。私には、まだ10年は先の話だと高を括っていたのだがなあ。」

「そうねえ。それでも、女の子は16歳で結婚できるのよ?」

「まだまだ子供だと思ってたんだがなあ。」

「まだまだ、子供だと思うわよ。」

「そうか。」

「でもね。」

「うん?」

「10年後だって、あの子は同じことを言っていると思うわ。……そんなところは、生ちゃんそっくり。」

「はは、敵わないな。」


 一瞬訪れる静寂の音と、グラスに浮かぶ氷の音。

 また一口、お父さんがお酒を飲む。


「そういえば、さなは、晴彦くんを知っているのか?」

「あら、生ちゃんも一度は会ったじゃない?」

「そうなのか?」

「ハルにいさんって覚えてない?」

「? ……ああ、彼、なのか? 結菜が6歳の時に交通事故から助けてもらった、あの大男。たしか好青年だったな。」

「そうよ。」

「……もしかして。」

「そう。偶然なのかしら、運命なのかしら。この前、また結菜が事故に遭いそうになって、そのとき助けてくれたのも、晴彦くんなの。」


「はは、なんだ。そうか、あの大男。確かに、ここらで大男といえば、彼しかいなかったな。そうか、ははは。」


 え、晴彦さんってそんなに有名……ああ、確かにロリコン疑惑があったけど、あれって大きいから目立って覚えられやすかったからか。


「明後日、取り合えず一発は殴りつけないと。」

「物騒ねえ。」

「10年も前から結菜を誑かしていた男だろう? そうか、10年前から結菜は同じことを言っているな、確かに。意志が固い訳だ。10年後だって同じことを言っているだろうな。」

「そうね。」

「なんだ、そうか。……そうか。これじゃあまるで、駄々を捏ねているのは、私じゃないか。参ったな。10年か。……今、結菜を許さなければ、私も10年は軽く許せなくなりそうだ。」

「だから、私も思ったのよ。どうして、あんなに賢い子が生まれてきちゃったのかしら。」

「さてな。……ああ、あの子が7歳の時にはもう――、」


 ペタンとボクは脱衣所に座って、聞いてしまった内容を思い返す。

 初めてお父さんとお母さんのを聞いた。

 二人は、駆け落ちしたんだ。苦労して幸せを形にして、そしてボクが生まれたんだ。


 ボクは、独りっ子だ。

 兄弟がいないのは、子供が出来にくいからかなー、とか考えてた。

 全然違った。

 お父さんの方のお爺ちゃんがいなかったのも、そんなものかと思ってた。

 当然だけど、お父さんにもお母さんにも人生があって、色々ある。

 お父さんとお母さんっていう絶対的で不変な、不思議な存在じゃない。


 そんな、大切な独りっ子のボクのことを、大切に考えてくれるから、頭から否定しなかったし、そして今も、ボクのために晴彦さんを受け入れようとしてくれている。それが、どれだけ大変なことか、ボクにはまだ全然わからないことだけど、ボクが愛されているのは凄くよくわかった。


 ……ボクはパジャマとか、下着を取りに行く物音で邪魔をするなんて野暮なことができなくて、バスタオル一枚で家の中を彷徨くなんてはしたないことをすることにした。

 お風呂入ろ。

 これ以上聞き耳を立てているなんて、踏み込みすぎだよね。



   *** ***



 ギシッ。ボクの部屋の椅子の背凭れが軋む。見上げた天井は真っ白。


 ビックリした。

 唯々、圧倒された。

 お父さんとお母さんのラブストーリーはボクの心に何か、説明できない感情を強烈に刻んだ。

 嬉しくて、そして申し訳ない。恥ずかしくて、惹かれる。そんな不思議な感情。


 覚悟を決めることの意味を、初めてわかったような気がする。


 希埼家の女は強いのよ。とお母さんは言っていた。

 ボクも、あんなふうになれるのかな。

 というより、なっちゃうんだろうな。

 不思議なのは、なんで、うちの苗字がお母さんの実家の苗字なのか。お父さんは、お祖父さんたちに許されたいから、布石としてお母さんの姓を選んだのかな。

 今度、聞いてみよう。

 というか、それじゃあお母さんはお嫁さんにはなれなかったってことじゃんか、なんて野暮なことは言いっこなしだよね。


「ふぅ。」


 落ち着いて整理する。

 頭をリラックスさせて、出来事を噛み砕く。


 お父さんたち、駆け落ちしたんだ。

 ボクも希埼の女だから。ダメと言われたら、駆け落ちくらいあっさりしちゃう。

 そう、思われたかな。

 だとしても、最初から否定される土俵に立たずに済んだのは大きい。

 今のボクに出来る次の一手ってなんだろう。


 うーん。


 お水を飲みに行こ。


 ボクはお風呂から上がって、お父さんにお風呂が空いたよって伝えた時には、お母さんは洗い物をしていた。ボクが2階に上がって色々考えて頭の中を整理していたら、お父さんが上がってきた音がしたけど、足音は一人分だった。だから、まだ下にお母さんがいるかも。

 そんな打算でボクは一階のリビングに向かう。


「あ、お母さん。」


 思った通り。


「ああ、結菜。ちょうど良いところに来たわね。」

「?」


 ボクはお母さんに誘われて、ダイニングテーブルに着いた。


「……結菜、さっき、聞いていたでしょ?」

「へ?」

「隠したってダメ。だって、お風呂の給湯器の画面が点くまで、結構時間がかかっていたじゃない。」


 ああー。そっか。家の蛇口に付いてる温水側のレバーって、給湯器をオンにしないと使えないからね。

 キッチンの側で切られていたら、お風呂側で点けないとシャワーが出せないもんね。お風呂で点けたらキッチンの方の画面も光りだす、か。

 ばれてた。


「でも、いいのよ。お父さんは気づいていなかったし。」

「え?」

「お父さんはね? 恥ずかしがり屋さんだから、結菜に面と向かってあんなこと、話せないわ。」


 ロマンチストの間違いでは?


「今すぐ幸せにしたい。……それは、本当?」

「うん。」

「じゃあ、私は応援してあげる。……結菜、頑張りなさい。」


「うんっ。」


 お母さんは、強い。

 そして、ボクもドキッとするような悪戯っぽい顔をする。


「結菜は、晴彦くんのことが好きなのよね?」

「う、うん。」

「じゃあ、秘密はバレないようにしなさい。」

「え。」


 秘密。


 秘密?


 お母さんは、ボクの秘密を知って……?


「お父さんのお嫁さんになりたかった。これは本当のことなんだけど、私が大学を辞めてアルバイトでお金を稼ぐことに決めた一番の理由はね、お父さんに話したことがないの。」

「え?」


 秘密がバレてなくて良かったっていう変な安心と、お父さんに秘密にしていることがあるお母さんへの不安が混ざる。


「お父さんの弟……結菜の叔父さんがね、当時高校3年生で、大学に行くべきかどうか、私に聞いてきたのよ。」


 お母さんはお父さんの幼馴染。

 叔父さんとも当然幼馴染ってことだよね。


「家計を二人で圧迫するくらいなら、その時、すでに大学に通っていたお父さんを優先して、自分は働きに出た方がいいんじゃないかって、言い出したのよ。お父さんには内緒でね。」

「ああ、そっか。」

「私はね、大学に通うことに魅力を感じていなかったのよ。でも、お父さんが大学に通うって決めていたから、私もそれに合わせて進学していた。」

「……お母さん。」

「だけど、こんなこと、お父さんには絶対言わないことにしているのよ。……私は、お父さんに恩着せがましく貸しを作るようなことをしたくなかった。だって、私がお父さんと一緒にいたいっていう言葉まで曇ってしまうような気がしたから。だから結菜、晴彦さんと一緒になりたいなら、秘密の一つや二つは抱えなさい。」

「うん。」


 わかってるよ。


「……わかってるって顔をできるのね。なんでこんなに賢い子が生まれちゃったのかしら?」

「わからないよ。」

「そうよね。」


 瞬間、まったりした空気が流れる。


「……お母さん。」

「なに?」

「ボク、明日、、、家出をしようかなって思うんだ。」

「結菜。」

「なに?」

「自分で今、言ってしまったら、、、それは家出にならないんじゃないかしら?」

「あはは。そうだね。うん。……お母さんには行き先を伝えておきたいんだ。」

「ああ、お父さんにとっては家出になるのね?」

「うん。晴彦さんの家で一晩泊ってくるね。」

「あら、大胆なことを言うのね。」


「お母さんだって、お父さんと二人っきりで明日はお話ししたいこととかあるんじゃないの?」


「……まあ、この子は親の心配をするのかしら?」

「うん。ボクがいたら、邪魔でしょ?」

「邪魔ではないけれど、、、確かに、話せないこともあるわねぇ。」

「今、普通にお父さんに晴彦さんのところに泊ってくるって言っても許してくれないから。だから、家出なの。」

「そう。」

「明日の朝、お父さんに言うから今日は内緒にしておいてくれないかな?」

「わかったわ。」

「これ、晴彦さんの家の住所と連絡先。お父さんには渡さないで。」

「はいはい。」


 ボクは、よく覚えている住所と電話番号を書いた紙をお母さんに渡した。


「ありがとう。」

「あら、まだ私はお父さんにこの紙を渡しちゃわないか、わからないでしょ?」

「大丈夫だよ。」

「どうして?」

「お母さんは、頑固なんでしょ? ボクはそっくりなんでしょ?」

「……もう。」

「えへへ。」

「褒めてないわよ。」


 それでも、嬉しいものは嬉しいんだ。


「さ、話はこれでお終い?」

「うん、、、うん?」

「お父さんにね、呼ばれているの。」

「は?」

「いつも、同じ布団で寝てるじゃない?」

「うん。」

「でも、おいで、なんて言われたの、何年ぶりかしら。」


「お母さん。」


「なあに?」

「もしかして、ずいぶんお父さんは待ってる?」

「うん。」

「だからって、そんなに怒らなくてもいいんじゃないかな。」

「だって、早く行かないとお父さん、寝ちゃうじゃない。いっぱい、ぎゅってしてほしいのに。」

「早く行ってよお母さん!」

「ハイハイ。お休みなさい。……ああ、そうそう。信じているからね。」

「お休みなさい!!」


 もぉ!

 いったい何の嫌がらせだよ!

 ボクも晴彦さんに添い寝がしたいだけだって言えばいいの!?



   *** ***



「ふぁ……あふ。」


 習慣で、朝は5時前に起きちゃう。でも今日は別にそこまで急ぐ必要はない。

 だから、体操とか勉強とかして、ゆるゆると準備をする。

 ベッドの隣には、昨日の夜に用意したキャリーケース。花柄の、大陸鞄にはキャスターが付いていて、そして色々詰めてパンパンだ。

 平日のように、晴彦さんのところでご飯を食べる気はない。今日はデートで、気合いを入れてオシャレをするから、お昼までは水仕事みたいな汚れるようなことをしたくない。

 だから、こっちでサンドイッチとか作っていって、晴彦さんの家ではコーヒーを淹れようと思ってる。


 サンドイッチ。けっこう奥が深い料理。

 単純にレタスとか、チーズとかハムとかタマゴとかツナを挟めばいいってわけじゃない。

 素材それぞれに合わせた下処理や、一工夫が美味しさに大きな影響を与える。


 今日は上手くいったかな。


 ご飯を食べたら着替える。

 今日は、今までで一番オシャレをする。

 晴彦が、オシャレを知っている。晴彦の記憶には、オシャレなお姉様方がいっぱいいる。企画部は、特に雑務課は円滑な業務の遂行を助けることが仕事だ。自社内だけでなく、自社の子会社や他社様にも連絡の窓口として足を運んだことも多かった。だから、色んな人を晴彦は見てきた。

 服の流行も、上手なお化粧も、全部見ている。

 今まで注目していなかっただけだけど、ボクにとってはそれらの見てきた記憶は凄く役に立つ。


 今日は、アフター5でカジュアルに振り切ったオフィスカジュアルみたいな服装を目指す。晴彦さんは以前、お得意様の早川さんと出先でミーティングして、そのままご飯に行くという機会があった。早川さんはギリギリオフィスカジュアルとして通用するような恰好で、ミーティングの後、ロッカールームで服装を整えてきた。

 ピアスとネックレス、それと靴を替えてきただけなのに、これからホテルのレストランにでも行けそうな印象になっていた。

 晴彦さんは、実はそのとき誘われていたと気付いていない。早川さんからは、今でも時々連絡が来る。


 ボクは、そんな早川さんをトレースする。

 多段の控え目なフリルが付いたブラウスと、膝丈のフレアスカート。それに大判のストール。それぞれがグッと大人っぽいシックなデザイン。その組み合わせで大丈夫か、ベッドに並べて確認する。

 大丈夫。下着姿も寒いから、早く着替えよう。

 ストッキングも穿いて、ブラウス、スカート、ストールもケープみたいに羽織って、姿見で確認する。

 大丈夫。ボクの持っているヒールの靴とも合うと思う。

 ピアスは無いから安物のイヤリングだけど、CZのワンポイントで、シルバーメッキでピアスみたいに見える。ネックレスも主張しすぎない感じ。細くて糸みたいなチェーンに、こっちもCZのワンポイントが光る。さすが、ダイヤモンドのイミテーションだ。

 でも、お安いのよ。

 髪の毛は編み込みハーフアップでまとめる。まとめたヘアゴムの上から、落ち着いた色のリボンがあしらわれたバレッタで飾って、そしてヘアゴムを解く。

 お化粧は、ナチュラルメイクを勉強していたのを応用して、ぐっと年上に見えるようにアレンジ。

 お母さんに買ってもらった、余所行きのルージュを引く。


 ここまでやって、ようやく晴彦さんの隣に立って、ぎりぎり釣り合う。

 そういうコーディネート。


 ボクは、周りのものを最後にまとめて、バッグに詰めた。

 出かけよう。


「ふぅ。」


 ボクは、玄関でお父さんを待つ。

 お父さんは、毎朝、顔を洗いに洗面所に来る。その途中で必ず玄関の前を通るから、全部準備を終えて玄関で待つ。

 まるで、心が研ぎ澄まされるように落ち着いていく。


「ん? 結菜、か?」


 来た。昨日はお酒を飲んでいたから、お昼まで寝てるかもって、ちょっと考えちゃった。

 お父さんは、お酒に飲まれたりしないよね。


「お父さん。」


 ボクは、振り向いてパジャマ姿でポカンとした顔のお父さんを見た。


「ボク、家出するね。」

「は?」

「行き先はお母さんに言ってあるから、心配しないで。ちゃんと明日のお昼には帰ってくるから。」

「いや、だから、そうじゃ、」

「お父さん。今日はお母さんとゆっくりお話しして欲しいんだ。」


 ボクは、家出するような不良娘なので、お父さんの返事とか聞かないで一方的に告げるだけだ。


「だから、バイバイ。」


 ボクはお父さんに捕まえられるより早く、家を出た。

 ヒールだけど、小走りで急いだ。

 でも、お父さんは追いかけてこなかった。


『駆け落ちしたいほど好きなのか?』


 そうだよ? お父さん。

 また明日ね。








~to be continued~